物たちの歌

玄関を開けると上がり框に猫が座っていた。

まるで旅館の女将が三つ指ついて「いらっしゃいませ」と言うような風情で。

私が抱き上げようとすると、猫は素早くクルリとお尻を見せて

スタスタと奥に入っていく。

 

なあんだ。と、私は少々がっかりのような安堵のような複雑な気持ちになる。

もしかしたら昼間のキツネのように人語を喋るようになっているのではないかと

一抹の不安、いや期待を持っていたのだ。

 

さっさと上がれと言うように、猫は自分専用のお椀の前でニャーと鳴いている。

 

はいはい、はい。

ごはんにしましょうね。

 

キャットフードをお椀に入れると、猫はわき目もふらず食べ始めた。

私の方はあまり食欲がわかない。

昼の残りで簡単に済ませようと思う。

食器や鍋をたくさん洗うのも面倒だ。なにせ、この手である。

 

しかし、痛みはもうほとんどない。

明日には包帯を取って良いと薬屋も言っていた。

針も持てるだろう。

 

私の仕事は主に針仕事である。

仕立屋の下請けをしている。他には洋品店からの依頼で直しもする。

あと、冬限定で、近所の中高生に編み物を教えることもある。

男の子は来ない。編み物をする男の子にはまだ会ったことがない。

裁縫や料理は、男性のプロも多いのに、編み物では聞かない。

私が知らないだけか。

 

女の子が集まるとお喋りに花が咲く。

そのときばかりは、この静かな家も明るい声でにぎわう。

そろそろそんな季節だ。

 

 

ストーブに火を点けて

ササッと夕食を終える。

体が温まると、動きたくなくなる。

ほんの少しなのに、食器洗いが面倒になった。

ビニール手袋をつけるのも面倒だ。指もまだ少し痛い。

 

食器は朝まで洗い桶に浸けておこうかしらん、と思う。

これまでそんなことはしたことがない。

そんな発想もわいたことがない。

祖母がいたら、きつくたしなめられただろう。

《何をするにも後片付けが基本中の基本ですよ》

《何事も終わりが肝心》

祖母の声が脳裏によみがえる。

 

ああ、そうか。ふとわかった。

 

弥生ちゃんの言っていた「窮屈」の意味が。

 

私は、祖母にも母にも、叱られたことがない。

それは、私の方が先回りをして叱られないように行動したからだ。

私の行動の規範はすべて祖母にあった。

祖母が無理強いしたわけでもないのに。

私がみずから進んでそうしたのだった。トラブルを回避するために。

トラブル?

どんなトラブルを想定していたのだろう?

子ども心に、何か良くないこと。怖いこと。

それでは、まるで、私は祖母の機嫌取りのために

自分のルールを設定していたことになる。

自分で、みずから。

 

それなら、それなら、ルールを変更すればよいのではないか。

私のルールなのだから。

今夜は食器を洗わない。それでいい。

なんだか、すっきりした。

 

すっきりしたら、途端に眠くなってきた。

ストーブを消して、コタツに入る。

猫も一緒に入る。

 

こんな時間に寝てしまったら・・・

イケナイという言葉が頭に浮かぶが、すぐに打ち消す。

 

かまうものか。

ルールの変更だ。私の好きにすればよい。

 

部屋の電気もつけたまま、あっという間に寝てしまった。

 

目が覚めたのは深夜だった。

一瞬、ここがどこだかわからない。

・・・ここは、どこなのだ?・・・

そうだ、ここは私の家の居間だ。

コタツで寝るなんてこと、したことがなかったから

目覚めた時に目に入る光景が新鮮だった。

 

いや、違う。

そうじゃない。

本当に新鮮なのだ。

部屋中が、なんだか明るくてクリアなのだ。

よく知っているはずの自分の家が、なんだか違う家に見える。

猫はコタツから這い出て、私の顔を覗き込んでいる。

私はもう一度呟いた。

 

・・・ここは、どこなのだ?・・・

 

――ここは、君の【今】だ。居間ではなく。――

 

猫か?

猫が喋ったのか?

 

――違う。よく周りを見てごらん。照明を消して。

  そうだな、ストーブを点けるといい。

  部屋を見るにはちょうどいい明るさになる。――

 

男性の声である。どこかで聞き覚えのある懐かしい声だ。

 

私は少しふらつきながら起き上がった。

寒い。ストーブを点けよう。

それから、次は電気を消せばいいのか?

よくわからないが、他にすることもない。

胸のずっと奥の方で、何かワクワクしてくるのを感じている。

この感じ、懐かしい。

 

照明を消して、驚いた。

部屋の中がチラチラと、小さな灯りでいっぱいだったのだ。

それらは全て、物が放つ光だった。

ごく微かな灯りだが、確実に光っている。

しかも暖かい。

 

特に強く輝いているのは針箱だった。

私は針箱を開けてみた。

すると、中の裁縫道具たちが、いっせいに声を上げた。

 

――さつき~!!――

――さつき~!!――

――さつき~!!――

 

私の名前を連呼する。

 

――わてらの計画、うまくいったんやな――

――待ち針はん、鯨尺はん、ええ仕事しはりましたなあ――

――お手柄ですなあ――

 

彼らの声は、決して大きくはない。少し高めの可愛らしい声だ。

それぞれに特徴があり、だれが喋っているのか、ちゃんと聞き分けられる。

 

私は目を丸くして針箱の中を覗き込んだ。

 

――台所も見てやってや~――

 

糸切狭が言う。

 

私は居間から台所の方を見た。

微かに光っている。

慌てて台所に足を運ぶ。

やはり、台所の調理道具たちも光っていた。

まな板、包丁、鍋に窯、薬缶・・・

洗い桶、中に浸けた茶碗と小皿と箸。

ああ、もう何もかもがチラチラと小さく光を放っているのだ。

 

台所は家の北側にある。流し台の前の窓もほんのり明るい。

窓の外は裏庭である。

私は、サッと窓を開けた。

師走の夜の空気が部屋に流れ込む。

寒いとは思わなかった。

なんて気持ちのいい夜風だろう。

裏庭の木々の葉っぱは、まるで露がついたように光の珠が浮かんで揺れていた。

光の粒子が、雨のように庭一面に降り注いでいる。

 

蜜柑の木の下で、キツネが「やあ!」と言った。

 

「もうすぐ友達もおおぜいやってくるよ。

あの提灯行列が見えるだろう。」

 

小さな赤いともしびがいくつも連なって

私の家に向かっているのが見えた。

 

そうか、そうか。思い出してきた。

 

私は小さい頃、この庭でよく遊んだものだ。

いとこたちと遊ぶより、一人で遊ぶ時間の方が長かった。

一人・・・と言っても、私にとっては一人ではなかったのだ。

キツネもいたし、アナグマもいたし、ミミズクもいた。

 

しかし、周りの人の目には、

私が、野生の小さな動物たちに囲まれて、

独り言を言っているようにしか映らなかったようだ。

 

祖母はそんな私を心配した。

キツネに化かされる、と言って

動物を裏庭から追い払ったのだ。

 

夢見がち、空想好きの私を祖母は好まなかった。

実際的で役に立つ習い事をさせられた。

針仕事もその一つ。

今では、それが私の身を助けてくれているのは事実。

祖母なりの愛情だったと思う。

 

「あの婆さんも、気の毒と言えば気の毒だったな。」

キツネが言う。

「あんなに道具たちに慕われていたのに

とうとう道具の歌を聞くこともなく死んじまって。」

 

そうなのか、祖母は道具たちに慕われていたのか。

 

「もちろんさ。物が人を嫌うなんてこと、あり得ない。

人が聞く耳を持たなくても、物は語りかけている。

人が物を使うとき、物はその動きに合わせて歌うんだよ。

人と物の息がピッタリ合ったとき、物は本当に嬉しいのさ。」

 

ああ、わかる、その感じ。

 

懐かしい。

 

「ここの婆さんには嫌われちゃったからね。

あるとき、急にこの庭には入れなくなったよ。

まるで結界が張ってあるみたいに弾き出されてさ。」

 

それはきっとあれだな。

あの薬屋の言っていた秘薬とやらが

槙の木の下に埋められた時なのだろう。

 

「道で君を見かけても、もう君の目は僕を映さなくなった。

声も聞こえないようだった。

仕方ない。

まあ、いいさ。またこうやって話せるようになったんだから。」

 

「君ももう大人だから、周りに怪しまれないように装うこともできるだろう。

本当はさ、誰でも物の歌が聞こえるし、動物とおしゃべりもできるんだがなあ。

もったいないなあ。

自分の片側を、つまり人生の半分を見ないようにして生きているんだからね。

本当の自分は、いつでも物と一緒にいる。

本当の自分は、いつもハッピーな場所にいる。

ハッピーな気分のときは、

本当の自分に寄り添っているっていう証拠なんだ。」

 

そこで猫がニャーと鳴いた。

私はちらりと猫を見る。

 

「猫や犬は賢いから、人とは話せないフリがうまいんだよ。

ちゃんと、全部伝わってるよ。」

 

そうなのか・・・、

なるほど、と思い起こせる場面がいくつもあった。

 

そうだ、こんな感じで話していたのだ。小さかった頃は。

祖母が怪しんだのも無理はない。

 

祖母には聞こえなかったのだ。それでも物たちに慕われていたと。

母はどうだったのだろう?

父はどうだったのだろう?

父は、もしかしたら知っていたかもしれない。

 

――みんな、知ってるのですよ。本当は。秘密でもなんでもない。

  ただ、忘れているだけ。

  さつき、お前も、そうだったでしょう?――

 

え?

お祖母ちゃんなの?

 

――ええ、ええ。

  そこのキツネさん、私は気の毒な人ではありませんよ。

  生きている時に知らなかったというのは、

  少々残念なことではありますがね。――

 

お祖母ちゃん・・・

 

――さつきは、生きている間に幸せにおなりなさい。――

 

祖母の声はそれきり聞こえなくなった。

 

 

ふと、我に還り

それにしても、と私は考える。

キツネはいったい何者なのだ?

私の小さい頃を知っているとなると、そうとうの長生きだ。

あり得ない。

いや、もう何もかもがあり得ないことだらけの一日だ。

 

キツネは言った。

 

「僕はね、あの頃のキツネと個体としては別のキツネなんだよ。

今はこのキツネの姿を拝借しているんだ。

あの頃、一匹の子ギツネがずいぶん君になついていたからさ。

僕の正体は・・・、

ねえ、さつき、君ももう薄々気付いているんだろう。

僕は君だよ。本当の君自身だ。僕と君とで一人の《さつき》なんだよ。

 

うそ・・・

いや、うっすらそんな気がしていたのも事実だった。

 

キツネは続けて言う。

 

「もうこの姿は必要ない。今から僕は元の場所に戻るよ。

君の心の中心に、小さくなり過ぎて見えなくなった点が一つある。

そこが僕の本来の居場所だよ。

用意はいいかい?」

 

用意と言われても困る。

 

「そっと目を閉じて。ただ、そのままでいい。」

 

目を閉じると、私の足裏が温かくなった。

そのぬくもりは次第に体を上昇してきて、全身をホカホカと温めてくれる。

指先から、頭のてっぺんまで、たっぷりと張ったお湯に浸かったみたいに。

今まで入ったどんな温泉よりも心地いい。

もしかしたら、子宮の中の羊水はこんな感じなのかもしれない。

ぬくもりと安心と希望で満ち満ちた羊水。

ゆらりゆらり、深いくつろぎの中でゆっくり呼吸する。

 

体の内部から声がした。

 

――これで完了だよ。――

 

目を開けてみた。

 

相変わらず家の中はチラチラと光っている。

窓の外、木の下ではキツネが座って、キョトンとした顔をしている。

キツネはもう喋らない。

声は私の内部から届いた。

 

――こんなふうに話すのも、これが最後だよ。

  もう、僕たちは一人だから、言葉を使って話す必要がない。

  これからは、君の言葉が僕の言葉だ。――

  

――良かったね、さつき!――

 

そのとき、居間も台所も、物たちの大合唱で埋め尽くされた。

祖母を慕い、愛した物たちの歌声は

母のことをも愛していたと伝えてくる。

そしてまた、さつきのことも。

 

 

そうだ。 

癒されない過去など一つもないのだ。

私の中に

前を向き続ける、もう一人の私がいる限り。

 

《 完 》

 

2024/1/6