置き薬

午後、裏の納戸の片づけをしているとき

玄関チャイムが鳴った。

ピンポーン!

 

あれ?

うちの玄関チャイムって、こんな音だっけ?

少々訝しみながらも、「はいはい」と玄関へと急ぐ。

「ちわーっ!」

男性の声だ。

さっき車が停まる音がしていたから、きっと宅配便だろうと見当をつける。

またチャイムが鳴る。

ピンポーン!ピンポーン!

「はいはい、はい」と、私も少し大きめに声を出す。

 

後ろ手に閉めようとした裏口のドアが風で勢いよく閉まり

私の右手の四本の指をがっつりと挟みこんだ。

免れたのは親指だけ。人差し指から小指まで、しっかりとドアに挟まれて

痛いこと、この上ない。

 

思わずうめき声をあげ、左手で指を包み込むようにしながら

私は玄関の戸を開けた。

 

そこには男が一人、立っていた。

私の顔(きっとしかめっ面をしていただろう)と手を見て

「大丈夫ですか?・・・血が出ていますよ。」と言った。

確かに、私の右手の中指が切れて血がにじみ出している。

 

男は中背の痩せ型で、柔和な顔つき。年のころは五十過ぎといったところか。

宅配業者ではなさそうだ。

制服を着ていないし、車に社名も入っていない。

 

「あ、はい。大丈夫です。」

全然大丈夫ではなかったが、早く用事を済ませて薬を塗りたい。

絆創膏を貼りたい。

そんな気持ちが顔に(全面的に)表れていたに違いない。

 

「どういうご用件でしょうか?」

と、私は早口で聞く。

 

「あ、や、どうも。私は富山の薬売りです。」

 

は?・・・薬の押し売りか?

 

「不審に思われるのも無理はありません。若い頃、ここの大奥様にお世話になった者です。」

 

祖母の知り合い?

 

「こちらのお庭にゲンノショウコがあるでしょう。それを摘ませていただいておりました。」

 

そこまで言うと、男はまた私の右手に目をやり、

「話せば長くなります。私の話より、そのお怪我の手当を先に済ませられた方がよろしいかと。」

 

願ってもいない提案だ。できれば私もそうしたかった。

私は力強くうなずいて、

「すみませんが、いったん失礼して指の手当てをしてきますね。」

と言った。

しかし、男は、これまた私以上に力強く首を横に振り、こう言った。

 

「私にその指の治療をお任せください。私は薬屋です。」

 

 男は玄関からは入らず、右手に回って縁先に背中の荷物を下ろした。

大きな風呂敷包みである。

 

あれ?

そんな荷物を持っていただろうか?

 

しかも、驚いたのは男の服装だ。

まるで時代劇の「水戸黄門」が地味になったようないでたち。

私はそのような服装をなんと呼んでいいのか知らない。

甚平のような、作務衣のような、下はもんぺのような・・・

頭には頭巾を被っている。

 

え?

さっきまで、その男はどんな格好をしていたのか思い出せないが

ともかく、こんなではなかったことは確かだ。

宅配業者の服装ではないと思ったことなら覚えている。

では、では、どんな服装だったかしらん・・・と

いくら頭をめぐらしても出てこない。

 

私があっけにとられている間に、男は風呂敷を開き

中の木箱・・・それもそうとう大きな木箱を縁側に置いて

私に、そこに座るように促した。

 

「手を見せて下さい。」

男は私の右手を取り、傷や腫れを確かめた。

そして箱から何種類かの薬瓶を取り出し、するすると包帯も取りだし

手際よく手当てしていく。

あまりの見事なその動きに、私は感嘆の息をもらした。

 

「もう大丈夫です。しばらく痛みはあるでしょうが、今夜一晩の辛抱ですよ。」

と言って、やわらかく笑った。

 

ズキンズキンとしていた、さっきまでの痛みがずいぶん遠のいている。

 

「ありがとうございます。」

私は素直に頭を下げた。

 

何がどうなっているのかを考える暇もなく事が運んでいったため

「何か変だ」と思う気持ちにさえなれなかった。

 

そのとき、家の前に停まっていた車にエンジンをかける音がして

ほどなくその車は発進した。

あれは、この男が乗ってきた車ではなかったのか?

 

男はまたやわらかく笑った。

 

あれは私の車ではありません。ご近所の誰かのでしょう。

私は車に乗りませんから。

ほら、と男は自分の方に手を向けて

「私はご覧の通りの薬屋です。富山の置き薬と言えばわかりますか?

電車を乗り継いで、基本は歩いて行商に出ます。」

 

富山の置き薬・・・

確かさっきもそう言っていた。

そして大奥様にお世話になった・・・とも。

 

ああ、思い出した。

私がまだほんの小さな子どもだった頃、祖母を訪ねて薬売りが来ていたな。

確かに、この男のような恰好をしていたような記憶が微かにある。

その頃は祖母も母も健在で、いや、祖父も叔父夫婦とその子供達も健在で

大勢でこの家に住んでいたのだ。

私の母は、いわゆる出戻りだったから、父はここに住んだことはないが。

 

にぎやかだった昔が思い起こされた。

 

そうだ。紙ふうせんをもらって、いとこたちと遊んだ。

あの、紙のふうせんをたたくときの手の感触がよみがえってきた。

 

「これでしょう。」

男は、私の脳裏を見透かしたかのように木箱から紙ふうせんを取り出した。

私の顔がぱっと明るくなるのを自分でも感じて、少々気恥ずかしい。

ペッちゃんこの紙ふうせんに、息を吹き入れて膨らませてくれた祖母。

 

「確か、さつきちゃんというお名前でしたね。」

男が笑う。

「ええ、ええ。その通りです。よくご存じで。」

「私は、若く見られますが、実年齢は相当なものでしてね。

昔、そう、あなたが子供の頃に何度もお会いしているのですよ。

もう、五十年以上になりますかね。

時代は変わりましたが、私のいでたちは変わりません。

ただ、もう薬を置いてくれる家が少なくなったので、

売り歩く機会も減ってしまいましたが。」

 

そこへ猫がやってきた。私と薬売りの間にちょこんと座る。

ちらりと男を見てから、くるんと丸まって日向ぼっこを決め込んだ。

 

「猫ほど縁側に似合う生き物はいないでしょう。

最近は縁側のある家も珍しくなりました。残念なことです。」

 

「ここで長話もなんですから、中へどうぞお入りください。

お茶でも・・・。」

と、私は腰を上げた。

 

「いやいや、お気遣いなく。それに、今日一日は水をお使いにならないように。」

 

そうであった、そうであった。

痛みが引いていたため、うっかりと怪我のことを忘れていた。

 

「と言っても、全く水を使えないのも不便でしょうから、ゴム手袋をなさって。

少々なら大丈夫ですよ。お風呂ではお気をつけてください。右手を高く上げて。

なに、明日にはもう包帯を取ってもらって構いません。

傷は浅いものでしたし、骨も異常ありませんでしたから。」

 

 

男はそこで一息つくようにして、縁から立ち上がり空を見上げた。

師走になったばかりの、高く青い空だった。

空気は冷たいが、その分どこか清浄な心持ちがする。

 

「今日こちらに伺ったのは、薬を売るためではありません。

置きっぱなしになっていた薬の回収と、裏庭を見せていただきたくて。」

 

裏庭?

 

「大奥様も奥様もすでにお亡くなりになっていることは存じ上げております。

ですから、つい、置き薬の回収を忘れてしまっていたのです。」

 

私は何も聞いていない。

祖母からも母からも。

既に二人は他界していて、置き薬がどこに保管されているのかわからない。

裏庭と言われても、あるのはミカンの木と梅の木が数本ずつ。

そしてその周りを囲うように、つまり外壁代わりに槙の木を植えてあるだけだ。

 

その時の私は、何のことやら?・・・という顔をしたに違いない。

 

薬屋は言った。

 

「御心配には及びません。薬の置き場所はわたくしが存じております。

ただ、勝手に入らせてもらうわけにもいきません。

それで、こうしてお伺いしたわけです。」

 

はあ。

 

「さっそくですが、裏庭に入らせていただいてよろしいでしょうか。」

 

 薬箱なら居間にあるのだが・・・。

クエスチョンマークを頭の上に三つほど浮かばせたまま、私は頷いた。

 

裏庭へと男の足は進む。

「昔のままでありがたい。」

勝手知ったる様子で男は犬走に添って裏手へと向かう。

私は慌てて男の前に出て、木戸を開け裏庭へと案内する。

 

「置き薬は・・・、あそこです。」

と、男は一本の槙の木の根元を指さした。

足早に木に近づくと、しゃがみ込んで小さなスコップで根元を掘り始めた。

 

え?・・・スコップ?・・・

いつ手にしたのか?

 

男は、そんな私を気遣うようなそぶりもなく黙々と土を掘る。

何が埋まっているのだろうか?

 

しばらく掘り返した土を、今度はサクサクと戻し始める。

 

最後に上部を均して、

「終わりました。」

と、男は俯いたままふうと息を吐いた。

 

そばで見ていた私は、とにかく呆気に取られて、返事もおぼつかない。

 

「これで心残りはありません。置き薬は解体いたしました。」

 

立ち話もなんですから、どうぞ中へ・・・と言う私に

男は首を横に振り

「いえ、先ほどの縁で水を一杯いただけますか?

多少のご説明も必要でしょう。そこでお話させていただきます。」

 

 

私たちは縁側に戻った。

猫が毛づくろいをしている横に男が座る。

私は急須に入ったお茶と湯飲みを用意した。

 

「水で良かったのですが・・・。」

と言いながらも、男は美味しそうに喉を鳴らしてお茶を飲んだ。

 

あの・・・と、私は問いかける。

さっき薬の解体と言っていたが、その前は薬の回収と言っていなかったか?

回収と解体ではまるで違う。私の聞き間違いだろうか?

疑問はあり過ぎるほどあったが、まずそのことが聞きたかった。

 

「はい。大奥様とのお約束で、薬がまだ使用可能な状態ならば回収を。

もう不可能な状態ならば解体を、ということになっておりました。

掘り返してみたところ、もう形をとどめていないほどに朽ちておりました。

なので解体を。」

 

どういう薬なのか?

なぜ、あんな場所に埋めてあったのか?

私はそんな話を祖母からも母からも聞いたことがない。

疑問は次から次へと出てくる。

 

「大奥様だけが知っていたことです。

奥様・・・さつきさんのお母様はご存じありませんでした。

もちろん、その他の家族の方々も。

あの薬は・・・」と、男は語り始めた。

 

それは、飲み薬や塗り薬ではなかった。

怪我や病気を事前に回避する作用を持っていたということだ。

何という薬か、その名前は教えることはできない。秘薬中の秘薬。

家内安全のお守りのような、お札のようなものに近い。

木の根元に埋めることで、その木が養分として薬を吸い上げ

成分を葉から空気中に散らすのだ。

 

年月が経てば、当然効力は消えるが、

その時期は短く見積もっても祖母の寿命よりは長くなりそうであった。

祖母が他界したら、速やかに回収するよう頼まれていた。

 

というのも、その薬は

祖母にとっての良い気がめぐる様に調合されていたため、

祖母が亡くなれば、この家に住む者たちに

どういう風に作用するか見当がつかないからであった。

 

「速やかに・・・と言われていましたのに、こんなに遅くなり

申し訳ありません。」

 

男は立ち上がった。

猫もアクビしながら伸びをする。

 

「さつきさん、これからは自由ですよ。」

 

え?・・・どういう意味?

 

「これまで、あなたは長い間、大奥様の夢の中で暮らしてこられた、

そういう意味です。」

 

はあ・・・。

今日何度目の「はあ」だろう。

薬屋の説明で疑問の大部分は理解できたが、

それでも、理解を越えたところで何もわからないままの自分がいる。

全てが、まるで夢のような話である。

 

 

「今日は町に出て見るといいでしょう。

夕方には、すっかり違う世界になっているはずです。」

 

男は風呂敷に包んだ大きな木箱を背負い、

「それでは、ごきげんよう。」

と言って、門を出た。

 

猫が門柱に駆け上がり、見送る様に男の行く先を見ていた。

 

 

2023/12/29